課題3のために わたしにとってのレファレンスのあり方を、まずはむずかしく考える。
「レファレンス」ということばが一般にはあまり知られていないことについての対策としてはどちらかしかない。
・わかりやすい日本語に言い換える
・レファレンスということばを浸透させる
ここでは、あまりことばそのものについてどうこういうのはやめにする。
レファレンス・サービスがもっと広く知られてほしいという気持ちには変わりはないのだから。
今回の課題のまとめである自分にとってのレファレンスのあり方について考える。
まずは資料そのものについて、ややこしく、むずかしく。
○信頼のおける資料ってなんだろう
司書資格を取得するために受けていた「レファレンス・サービス演習」では、百科事典などは2種類以上を必ず引き較べるようにと教わった。
違っていることがあるから、信頼のおける情報かどうかを確かめるというわけである。
情報といえば紙の資料から得るしかなかった時代においては、大手出版社のものや、著名な研究者の書いたものが、より信頼のおける資料とされていただろう。
100年前なら、ある出来事が「実際にあったこと」として認識されるためには、活字として残らならなければいけなかった。
それ以外は、「起きていないこと」、になる。現代に生きる私たちが知ることのできないことは、全て「なかったこと」、である。
しかし今は違う。ブログなどで多くのひとが自ら情報を残す。
近代文学の作家が、何月何日に何をしていたかを、研究者たちは作家自身の日記、随筆、周りにいたひとの日記などから明らかにしてきた。
そして、そこから明らかになったことは「あったこと」として扱われる。
レフアレンスなどで尋ねられたら、「この日、この作家は、こんなことをしていた」と全集を片手に答えるだろう。
それに対して、いまこの時代にブログを書いている作家のことを考える。
その日記のなかで書かれていることは「実際にあったこと」になる。例えそれが嘘の日記であっても。
歴史上起こったことは、多くのひとによって書きとめられた創作物であるが、
それは必ずしも「実際に起こったこと」というわけではない、という話になると長くなるのでやめる。
ひとまず、ここで言いたいのは、「文献の信頼性」というものの基準が変化しているということだ。
百科事典の話に戻すと、以前は間違った内容や、その後正しくないとされた内容であっても、それが発見され、改版されるまでは「あったこと」として世の中に存在していたということについて思いをめぐらせてしまう。
いま、例えばWikipediaなどでは、常に内容が書き換えられ、変化する。
そのことが信頼性のなさに結びつけられることが多いが、流動的であることは逆に信頼できることといえるのかもしれない。
なんというか、だから、レファレンスで「これが正しい回答です」と自信を持って答えるのは、かえって難しくなるだろうと思った次第です。